【昔の佐川急便は給料が高くて稼げるブラック企業だった理由②】

今回の話が【昔の佐川急便は給料が高くて稼げる理由】の最終回です。

前回記事

給料が高くて稼げるビジネスマン

やっとの思いで帰社して未配達の荷物や集荷を降ろして

荷下ろし場で遠方の地域を担当している先輩方が帰るのを待って荷下ろしを手伝うと

時間は23時30分くらいになっている。

1年で1番忙しい日の12月25日の前日、クリスマスイブの24日は

午前0時を過ぎても発送作業をしているのが慣例行事だった。

何故?12月25日が1年で1番忙しかったか?というと

毎月25日はお客様に請求書をお持ちして集金のお客様は集金をするのが恒例だった。

私のコースは請求書を35件くらい配っていたので

10時30分頃に営業所を出発して配達、請求書を配りに事務所に行って集金をするのが大変な作業だった。

銀行振り込みのお客様もいたが35件の半分くらいは手書きの領収書を持参して集金するお客様だった。

もちろん2トン車の積載は100%、個数も300個くらいは積んでいる。

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昔の佐川急便は給料が高くて稼げた理由

gokamont

「昔の佐川急便は給料が高くて稼げるブラック企業だった理由」の真髄が始まります。

私が佐川急便に入社した平成6年は伝レス(伝票レス)の伝票は1枚もなかった。

数年後に秘伝アシスト(後のe秘伝)が誕生して

環境にやさしく経費の掛かる手書き伝票を極力少なくしよう、という方針になるまで

手書きの伝票は店番(店の番号)を赤マジックで書かなければならなかった。

帰社して荷下ろし場で荷下ろしをしていると親しい先輩から

K大先輩「おかもっちゃん、今日も帰れないよ」

岡本「マジっすか?昨日もありましたよね」

K大先輩「毎日だよ」

などと有難くない情報を聞かされる。

発送作業が終わり深夜の0時30分頃に終礼をする。

この頃は、時間が無いのに毎日朝礼、終礼をしていた。

そして、事故違反をしたドライバーの公開処刑が行われていた。

店長、課長、係長の有難い訓示

S営業課長「お疲れさん。今年も残り1週間を切った。来週から休みに入るお客さんも多いと思う」

S営業課長「今年ももう少しだ。Wが他社伝を3000持って来た。みんな拍手」

みんな無言のままパチパチ(拍手)

岡本「(心の中)マジかよ」

S営業課長「そこでみんなもうひと仕事してくれ。3000の荷物は明日の発送で伝票に発送先と店番を書かなければならない。」

S営業課長「解散」

店番を知っているドライバーは尊敬されていた

この作業は主任とドライバーで作業をする。

係長、課長、店長は翌日配達する荷物を積んだ大型トラックが何台か到着しているので

その荷下ろしをする。

この頃は配送課も数名しかいなかったので、課長、店長は12月になると営業所に泊まり込みで仕事をしていた。

宛先を書く人と店番を書く人に分かれる。

宛先を書く人は店番をあまり知らない人。

赤マジックで店番を書く人は店番票を見なくても記憶していて書ける人が店番を書く。

昔は店番票があった。

(今でもあるかもしれないが営業店が分割や統合されるたびに更新されて、みんなバイブルのように持って仕事をしていた。)

1日1000個とか集荷しているドライバーは

H大先輩「邑楽郡大泉町?795だよ」

岡本「(心の中)え?邑楽郡?群馬なの?」

昔は町名で店番が違う事も多く邑楽郡でも795の管轄と794の管轄があったりする。

795の管轄の荷物を794で書いたりすると翌日に荷物は届かないし

この時代の年末は1週間くらい荷物が行方不明になることも度々あった。

だからマニアックな地域の店番を知っているドライバーは尊敬されていた。

H大先輩は4トン車で年末は配達1000個、集荷も1000個している凄いドライバーだった。

昔の佐川急便が何故?給料が高くて稼げるブラック企業だったのか?の真髄がココにある。

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尊敬できる先輩たち

私が入社した頃は店番を知らない宛先担当だったので

先輩方と話しながら宛先を書いていると数分で眠くなる。

時間は午前1時30分頃

岡本「(心の中)明日、起きれるかな?」

S大先輩「岡本、もう帰って良いよ」

岡本「先輩方は?」

S大先輩「俺らはもう少しやってから帰るから」

岡本「お先に失礼します」

時間は午前2時頃だ。

岡本「(心の中)本当に凄い先輩方だな」

後に聞いた話だが年末の帰宅時間は営業所によって差があり

営業所のシャワーを借りて泊まり込みで仕事をしているドライバーも数多くいた、

と聞かされたことがある。

「家に帰れるだけマシだよ」

この言葉を三多摩店や練馬店など大型主管店のドライバーから何度も聞かされた。

家に帰るのは午前2時30分過ぎ

営業所から家まで車で30分の距離だった。

この頃は独り暮らしだったのでコンビニで晩飯を買って家に帰る。

シャワーを浴びてコンビニで買った弁当を電子レンジに入れる。

朝寝坊が怖かったので寝室で寝たりはしなかった。

居間に大きいソファーがあったので電気とテレビを点けっぱなしにして

目覚ましを3個用意して横になると寝ている、という毎日だった。

家に帰って最初にすることは風呂に入ることと目覚ましをセットする事だった。

時には電子レンジに弁当を入れたまま寝ていた。

時には洗濯をしようと洗濯機に制服を入れて洗っている間に寝ていたことも度々あった。

朝起きて洗濯機の脱水が完了した制服を着て仕事に行ったことも度々あった。

真冬で縞シャツを着たときは寒いが営業所で荷物を積んで大汗をかくと

岡本「別に乾かさなくても良いんじゃね?」と思っていた。

しかし、入社した年の年末

岡本「(心の中)このままじゃ、俺は滅びる。結婚しよう。独り暮らしは無理だ。」

と本気で思った。

しかし、仕事がキツイから会社を辞めよう、と思った事は1度もなかった。

両親の夫婦仲が悪く親は別居、父親の家で暮らしていた。

家に帰って電気を点ける➔ 風呂に入る➔ 風呂から出る➔ 目覚ましをセットする➔ コンビニで買った弁当を電子レンジに入れる➔ 食べる

ここまでの流れをソファーに横にならないでしなければならない。

入社した年末を終えた時の達成感

朝5時20分頃には起きなければならない。

1日の寝ている時間は2時間くらいだった。

11月下旬くらいから12月の会社が終わるまで出勤する日は毎日こんな生活をしていた。

入社した頃は月に6日休みだったが年末は週1の休みだった。

佐川急便に入社した初年度の平成6年は

92キロで入社した体重が年明けには78キロになっていた。

半年で14キロの減量だ。

平成6年の最後の仕事を終えた時の達成感は今も覚えている。

「やり切った」「自信がついた」そう思えた。

佐川急便の当時の初任給が50万円。

数年前までは初任給55万円だったらしい。

入社した新人は初任給50万円でも3カ月働けた人は極少数だった。

私の担当していた地域も私より2カ月遅く入社したライバルのOドライバーが最後で

それから3年間誰一人新人が育たなかった。

そして、年明けの2月に給料が55万円になった。

半年で5万円の昇給、銀行の口座を見た時は、

岡本、「(心の中)何か多くね?マジかよ。給料上がってんじゃん。すげ~会社だな。佐川急便は。」

仕事はキツイけど男としてやり甲斐がある、そんな会社だった。

そして、そこで働いている先輩方は尊敬が出来る、凄い人達だった。

昔の佐川急便はどれくらい稼げていましたか?

引用元:https://jp.quora.com/%E6%98%94%E3%81%AE%E4%BD%90%E5%B7%9D%E6%80%A5%E4%BE%BF%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%84%E7%A8%BC%E3%81%92%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B

昔の佐川急便は給料が高くて稼げるブラック企業だったが、そんな昔の佐川急便で働けたことを今も誇りに思っています。

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6件のコメント

お疲れ様です。現在は店番票はありません。

PDTでバーコードを入力してから郵便番号等を入力すると、店番の印字されたラベルが出てきます。

改悪ばかりする会社ですが、唯一改善されたなぁと思う事ですね‼️

飛脚君さん

コメント、本当に有難うございます^^
懲りずに(笑)読んでいただき有難うございます。
店番票、やはり無かったですか…
退職した後に委託も少しやっていたのでラベラーの存在は知っていたのですが
佐川急便や他の運送会社は昔から悪いところを改善するのに微速前進がモットーらしいですよ^^

読んでいただき本当に有難うございます。
8月になっても猛暑の予報ですが体調管理に気を付けて無理をせず頑張って下さい。
私も及ばずながら頑張ります^^

とても懐かしく、全部読んでしまいました。
40年前に、713旧三多摩店(武蔵村山)で働いていました。
三多摩店が、昭島に移転して退職しましたが、佐川急便で働いたことは自分の誇りです。
今でも年末になると、当時の強烈な夢をみます。

106さん

コメント、本当に有難うございます^^
一番うれしいコメントです^^
大先輩ですね?(笑
私は平成6年入社なので武蔵村山市の武蔵村山店~でした。
武蔵村山店が昔三多摩店で昭島に移って三多摩店になったことも尊敬する大先輩から聞かされました。
私もブログで色々なことを書いていますが、佐川急便で働けて生き抜いたことが誇りであり今の自信にも繋がっています。
先輩、同僚、部下の中には重大人身事故を起こして佐川急便を去った人や一生悔やみきれないほどの後悔を背負って生きている人もいます。
106さんや私は前向きに生きられている分、幸せなのかもしれませんね?
私も年末になると「あの頃の今頃はあんな感じで大変な思いをしていたよな~」みたいな感傷にふけることがあります。

コメント、本当に有難うございます。
元佐川急便の戦友として106さんの今後の人生が素晴らしいものになるよう祈っています^^

ご丁寧なお返事をありがとうございます。
さすが長年の間にわたり、佐川で生き抜かれた方だと尊敬いたします。

自分は当時の106コース。
武蔵村山を担当していました。ムサムラは106の伊奈平側と107の旧日産側の2コースでした。
当時は、東村山、東大和、武蔵村山が3係。
自分もオカモトさんと同じように、まわりは凄い先輩ばかり。
当時の主任だったSさん(別人物だと思います)には、感謝しきれないほどにお世話になりました。
係に1台しかない4トンには、レナウンルックの長物や、アイワールドなどなど・・
当時はヤマトとの住みわけが出来ていて、国分寺や国立の係は宅配に振り回されていましたが、宅配のヤマト、商業荷物の佐川でしたので、宅配が数件しかなかったのが救いでした。
通常が6時から本線発送が終わる22時30分位まで、その後にゲンシュウを処理して23時に上がれました。
繁忙期は同じように、いつまでも終わりませんでした。
給与は55万円。そこから罰金やら破損の弁償やら。
オカモトさんの時代は、物販やら対前年度120%やらに苦しんだと想像します。
幸いにも物販が無い時代でしたので、自腹でノルマはトップ便くらい。
新規獲得と他社伝のノルマも、頑張れば達成できた時代です。

同志からお返事を頂き、忘れていた昔を思い出しました。
ご返事は不要です。

106さん

返信有難うございます^^
なるほど、106ってそういう事だったんですね^^
武蔵村山で2コースだけってすごい時代ですよね。
私が入社する少し前までは4台で東大和を集配していたとか…
それよりさらに前だと新青梅で南北に区切って2台で集配していたと大先輩に聞きました。
ルックにアイワールド、懐かしいですね。
私の時代も東大和で宅配車は1台だけでした。
1台で全域を配達してくれていたので100個がマックス
年末になると2トン車で配達
でも今に比べたら通販の荷物もほとんどなく、お歳暮の荷物を配達するのが慣例でした。

106さんの時代は私の時代より更に厳しかったことが想像出来ます。
平常時は日にもよりますが19時30分頃退社出来たこともありました。
配送課や伝票を整理してくれる人もいたので配達、集荷が終わったら帰って
帰り掛けに一杯(時効なので)なんてことを楽しみにして仕事をしていました。

私こそ大先輩からお返事を頂きもう一度佐川時代を思い出しました。
詩人の才能があると思いますので、もう一度ブログを書かれてみてはいかがですか?^^
本当に有難うございました。
戯言を不定期でアップしていますのでよろしければ覗いてみてくださいね^^

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