【佐川急便の祭り】飲酒運転で捕まるドライバー続出で廃止!セールスドライバー誕生編⑥

平成6年6月6日に入社して、1か月半くらい経とうとしていた7月下旬になると、連日のK大先輩との同乗で厳しく、時には優しく教えられながらも朝、起きて職場に向かう途中は、憂鬱極まりなかった。

会社に着けば2トン車に荷物を積み込む。

コースは、工場や量販店が乱立している地域で、工場には、機械や基盤、3メーターくらいの重い長物など1個、数10キロする荷物が、何10個も届く、量販店には靴だのおもちゃだのカー用品だの何10個も届く。

そして、真夏の炎天下の中、エアコンのないトラックに乗り、K大先輩にダメ出しされながら、汗だくになって配達する。

そんな生活が、1か月近く経つ頃には、会社に行くことに拒絶反応が起き始めた。

この頃からだろうか? 会社へ向かう車の中で、指を口に入れて「オエッ」と、吐くような事をやり始める習慣がついた。

とにかく、仕事に行くのが嫌だった。

週に1度の日曜日の休みも、家から会社の方角へ車を走らせると拒絶反応が起きた。

会社に近づくのが嫌だった。

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佐川急便の納涼祭

でも、これだけ仕事が厳しくても、遊びになると徹夜してでも遊んだ。

給料の大半を遊びに使うくらい遊んだ。

当時、結婚もしていなかったので、飲み、女、パチンコ、競馬、ゴルフなど土曜の夜から月曜日の朝までフルで遊んだ。

月曜日の朝、1時間くらい仮眠して職場に直行なんてことも多々あった。

7月中旬くらいに近隣の店が集まって、三多摩店で祭りがあった。

後に、社長になる平間氏が、この地域の統括をしていた。

後に社長になる平間氏は、こんな人物です。コチラのサイト様で紹介されています。➔ 「待ち」より「攻め」 平間正一佐川急便社長が語るcheck

祭りは、平間氏の入場式みたいなことをやって、各店、出し物もあった。

外部からも和太鼓奏者や司会進行のプロのナレーターも来ていて、大型トラックが壇上だった。

食事、飲み物は全て無料、当然、ビールも飲めた。

当たり前のように、皆、車で帰った。

お祭りの帰りに飲酒運転で捕まるドライバー続出

このようなお祭りは数年続いたが、飲酒運転の取り締まりが厳しくなり、お祭りの帰りに捕まるドライバーが続出して永久に中止になった。

良くも悪くも佐川急便に活気があり、ドライバーも凄い人ばかりだった。

客観的に見ても、この頃、ヤマト運輸のドライバーでは、営業能力、集配能力において佐川急便のドライバーには、勝てなかっただろう。

ただし、今は、逆転している。

このお祭りで、彼女が出来た。

彼女は、厚木店の事務職に在籍していた。

この頃の佐川急便は、女性ドライバーは、一人もいなかった。

今みたいに軽自動車で、宅配だけ配達する軽4ドライバーという職種もなく、2トン車で配属されたコースを全う出来なければ、辞める以外に選択肢は残されていなかった。

酔っぱらった勢いで、初対面の彼女に声を掛けて、自宅の電話番号まで聞き出した。

今みたいに携帯電話もない時代だったから、連絡取るのにも苦労した。

日曜日になると事故って修理したが、エアコンが壊れたままのMR2に乗って厚木まで行き、デートをして帰ってくるのは、月曜日の朝5時30分頃だった。

寝る時間もなく天国から地獄に落とされたような気分で、極度の拒絶反応に耐えながら仕事に行く。

結婚するまでは、こんな生活だった。

いや、結婚してからも、こんな生活が多かった。

だから、嫁さんとは、その後、別居した。

MR2については、コチラのサイト様が詳しいです。ちなみに、SW20です。➔ まさに伝説!トヨタ MR2ってどんな車だったの?check

でも、20年前の佐川急便を耐え抜くことが出来たのは、こんな生活が好きな性格だったからだろう。

次の日、苦労することはわかっていても欲のためなら行動せずにはいられない性格が、今日の自分を支えていると思う。

もし、「仕事で疲れたから日曜日は、寝るだけだよ!」みたいな過ごし方をしていたら、この頃の佐川急便では通用しなかっただろう。

当時の先輩も仕事でどんなに疲れていようが、土曜日、仕事が終わって飲みに行き、日曜日、そのままゴルフに行く、みたいな人だらけだった。

こんな人達と対等に話せるようになるには、自分も同類じゃなきゃ話せない。

何歳になっても様々な欲を追い求めている人間の方が、若く、活力ある生活が出来ていると思う。

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1か月遅れ入社のライバルOドライバーにあっさり抜かれた

だが、仕事は、落ちこぼれのままだった。

9月の下旬になると、1か月遅く入社したOドライバーに先を越され、Oドライバーは、あっさりと独り立ちしてしまった。

私は、まだ、K大先輩と同乗の日々が続いている。

入社して3か月半も経っている。

前代未聞の遅さだった。

周囲からは、「あいつ、まだ、同乗しているのか?」、という冷ややかな声も聞こえてくるようになった。

そして、10月、私にも独り立ちの日が来るのだが・・・、またしても、見切り発車(仮独り立ち)ということになってしまう。

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